サバイバル!/服部文祥

サバイバル登山を実践するサバイバル登山家服部文祥さんの本。
はっとしたり深くうなずいたりする言葉がいっぱいある。

  • 登山は判断の連続で成り立っている。なのに登山者の目に、判断の正誤が見える形であらわれるのは、致命的に誤っていたときだけだ。正しい判断にご褒美はなく、生存という現状維持が許される。小さな失敗は見えない労力や苦痛になって返ってくる。そして決定的な失敗をしたときに、登山者は死という代償を受けとることになる。
  • ギョウジャニンニクに手を伸ばすが、さっきの登山客の集団が気にかかる。国立公園の保護地区で植物を採取するのは御法度である。(中略)だが余計な主張はすまい。負け戦にきまっている。
  • 可能性のあることはいつか必ず起こる。こぼす可能性があるもの、壊してしまう可能性のあるものは、気がついたときに処置しておかないと後悔することになる。あとでやればいいやと思っていると、足の下から大切な竿が折れるボキッという音が聞こえてきたり、蓋をしていないごま油のペットボトルをけとばしたりする。
  • 自分の欲を削ってまでも世の中をよくしようとする生物は存在しない。
  • きしむような体を少しづつ動かしながら、朝の用意を進めるつもりだった。だが、大きな薪を窮屈な体勢で移動させなくてはならなくなり、起き抜けからいきなり最大筋力を発揮することになった。スイッチをひねれば、安定した炎をあげてくれたり、明るくなったりする文明の力がちょっと恋しい。自然の中で何かしようとしたら、いつでも本気が要求されるのだ。
  • 本来自分ですべきサバイバルの主要事項「衣・移・食・住・治」を金銭で解決するわれわれ都市生活者は、気がつかないうちに悲しい卑怯者をやらされているのではないだろうか。
  • 正直なところ、岩魚を殺すことに私は罪の意識を感じていない。私は私の生を精一杯生きるだけだ。それ以外にこの世に敬意を表す方法はない。

サバイバル!―人はズルなしで生きられるのか (ちくま新書)

登山というあえて不利益な行為をする愚行権を行使するのは、単純に山が好きという感情で山に行くのはともかくとして、山で自己表現を求めるならばやっぱり思想を持ち込まなければ成り立たないだろう。思想もなくただ山に溶け込みたいと願うのが登山の理想の形だと思うけれども。


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