意識のハード・プロブレムという難問

心身問題とか心脳問題とか、ハードプロブレムと言われている問題を考えてみる。


こんな思考実験をしてみる。
ついになぜ体に(脳に)意識が宿るのか解明されたとする。その解明した科学者が書いた、脳と意識の秘密を説明した本をあなたが読んでみるとする。そこには神経科学か哲学かその他の理論を駆使した論述が駆使され、それを読むあなたはどんな専門的な内容も理解できる知識があるとする。さて、その本を最後まで読み切った。確認しておくが、この本はなぜ脳に意識が宿るのか解明した内容の書かれた本である。
あなたは、何を分かったか?
「なぜ?」の部分が分かったはずである。
だがそれはいったいどんな経験か?
どのような説明を受ければ、脳が意識を宿す真実を理解できるのか?


たとえば、円周率の100兆桁目は不明だが、円周率の100兆桁目は仮に「5」である、というような説明を受ければあなたはそれを理解したことになる。だが意識の問題は、どんな説明を受ければ理解できるのか?ということ自体が想像もつかない。言葉で記述することもできない。言葉で記述できなければ説明不可能といってもいい。
ニューロンの発火パターンがあれこれで〜」式の物理的に還元される説明は、「脳の神経細胞の働きが意識の源である」というような説明と大差なく、確かにより科学的であるといえるかもしれないが、結局物質としての体(脳)に非物質(?)の意識が宿るということの説明ではない。これはどこまで脳の研究が進んでも同じである。
ひょっとしたら哲学的ゾンビにはこの説明で十分なのかもしれない。もっとも哲学的ゾンビがそもそも「理解」するということは不可能だろうが。

勘違い分裂君劇場 意識の謎を解いてみました


結局のところ、霊や魂などの超自然的なものを信じない人にとっては、
この、「現に世界が見えている感じ」というのは、よーするに、何なのでしょうか?
「何」が世界を見ているのでしょうか?
この世界を見ている、その主体は何なのでしょうか?

物理現象を超越したものを信じないのですから、答えは明らかです。

よーするに、「ある特定のニューロン塊が分子的・電気的にある活動をする」ということと、
「その特定のニューロン塊が世界を見る」ということは、完全に同一のことなのです。

つまり、ニューロン塊の分子的・電気的活動状態が、世界を「見て」いるのです。
「物理現象」が世界を「見て」いるのです。

「物理現象」が世界を「見て」いるとは、結局トートロジーであろう。森羅万象、そこらの草も石ころも物理的現象があるところに意識があるなら哲学的ゾンビも意識を持っているであろう。では現に私が世界をみているこの感じは、どうして草や石ころではなく(それは明白なので)私に発生しているのか?さらに、他の人間にも発生しているはずだと、(まれに疑うことはあるにせよ)なぜ確信しているのか?。

その私の心は、事例がその一つしかないのだから、一般的なものでなく、そしてその唯一の事例は、私のそれであって、私のそれでしかありえないのだから、
(中略)
それなのにどうして心なんて一般的なものがあると、誰もが信じているか?なんといってもそれが解明されるべき第一の問題でしょう。
永井均 なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)

永井均の問題意識は、ほとんどここに尽きると言っていい。


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