トートロジーという出発点

以前トートロジーが語るものは何かと書いた。ヴィトゲンシュタインによればトートロジーは現実の世界に何物も対応しないと言ったけれども、そうだとすると普段発する挨拶やその他膨大な言葉が彼によれば情報のない無意味な言葉ということになる。
逆に考えてみる。我々が普段使う言葉で、トートロジーでないものは何か?
毎日テレビで流される世界各国のニュースは、トートロジーではないのか?どこそこの国で、政権交代が起こった、なんてことは、確かに現実の世界に対応した写像ではあるが、それに関心を持たなければ「明日は今日の翌日である」という言葉と同じ無意味な(情報のない)トートロジーではないのか?新聞記事も、図書館に収められている膨大な書籍も、無数の文学作品も、それに関心を向けなければ無情報ではないだろうか?それは情報として傍らにあるけれども、関心を向けなければただの空気のようなものとして存在だけだ。
結局、思想とか哲学とかの形而上学は、一見トートロジーと思えるものを否定することろから出発しているような気がする。