刹那の意識

通勤電車での帰り道でぼーっと考えることに、同じ電車に居並んで帰宅するこれらの人たちは、あと100年したらだれ一人この世におらず、その人たちが思っていたことはすべて無になるのだなあ、ということだ。
その人の感じている喜び、悩み、愛情、小さな希望、そんなものが全部、消え失せてしまうのだ。
中には大きな愛情や、立派な志をもっている人がいるかもしれない。通勤電車の中では大半の人はいらだちとか、取るに足らない感情を抱いているだけだろうが、感情や考えの人間的価値とは無関係に、死んだら等しく消え失せてしまうのだ。
これってぞっとするほど残酷なことじゃないだろうか?


ところで意識とは連続する映画のフィルムのようなものだと連想しているが、意識が仮に一瞬一瞬がストロボのように明滅するものだと考えても矛盾は起きない。我々は他人の意識を覗けないし、自分の意識を客観的に観察することもできないから。例えば私がある一瞬に「意識」を持ち、次に「意識」を持ったのはその10秒後だったとしても矛盾はない。その間の10秒は、私含めだれも「意識」があったとは主張できないし証明もできない。特に通勤電車の中でぼーっとしているときはそんな状態で過ごしているような気がする。
人一人が一生の間に考えたり感じたり、およそ意識を持っているといえる状態であるのも、一瞬なのかもしれない。一生はほとんど一瞬に等しいのかもしれない。次に「意識」が灯る瞬間は、私は私ではないのかもしれない。などと、とりとめのないことを考えていたら、あっというまに駅に着いた。