「考えない勇気」を考える

ココロ社さんのエントリ、「考えない勇気」を持てば、頭がスッキリ!より、考え方に共感がもてたので言及してみる。他の人のように饒舌ではなく舌たらずですけど。

学校で「考えたり、議論することはいいことだ」という刷り込みをされたせいか、考えること、議論していることで、何かやった気がしてしまいますが、やはり考えるべきことと、そうでないことがあるように思えます。

そうです。私は議論、議論、というやたら議論したがる人が好きではありません。たいていその議論とは何かを決定させるためではなく、自分の意向をやんわりと通すためだったり、責任の所在をあいまいにさせるためだったりすることが大半だからです。考えることは自分ひとりでするものなのでこの限りではありませんが。

結論から逆算して考えることで、考える時間が節約できる

時間がかかりそうな問題に出会ったら、、ひとまず思考した後の結論をイメージします。「結論は思考した末に出てくるものだ」と一般的には思われがちですが、考えた末に、最初に想像もつかなかったような結論に至ることは稀だし、そんな突飛な結論に至るほどわたしたちは頭がよすぎるわけでも悪すぎるわけでもないので、想定の範囲内の結論でいいのではないかと思います。

ビジネスでAかBかの問題を議論するとき、結局「A」「B」の未来どちらかしかなく、その中間の状態が考えられないのなら、しかもAを選ぶべきと皆がうすうす気づいていて、それでも延々議論するというのはつまるところAを選ぶのがあまり望ましくない結果であった場合、その衝撃なり辛さなりを緩和するためにやっているようなものです。
ところで哲学上の問題である「心身問題」とか「他我問題」とかは、その問題に結論が出ない(出せない)と皆がうすうす気づいているにも関わらず、延々と議論し自分の意見を論じています。それこそが哲学であると中島義道はいい、ココロ社さんのような考え方は哲学の死と断ずることでしょう。
もっともビジネスの場でこのような哲学をやって時間を無駄にしている人はたくさんいます。ビジネスならココロ社さんの手法は圧倒的に有効です。
結論は何かうすうす気づいている。または哲学上の問題のように結論がないとうすうす気づいている問題を考えたり悩み苦しんだりすることで人生の陰影は刻まれるのだと思います。それが同じところをグルグル回り続ける思考であっても。ちょうど写真が、暗部を引き締めることで透明感と鮮明度を増し、印象感を高めるように。

哲学の教科書 (講談社学術文庫)

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