行って見なけりゃわからない

最初は非日常に触れたかった。しかし日常的に山に行くようになって、山と街を往復するのは日常生活となり最初の非日常は日常となった。非日常とは、
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こんなのや
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こんなのを目にすることができる場所である。
どんな山行でも金曜の夜でかけて土曜日に登り日曜の午後になれば下山してくる。余韻は長くは続かずまた次の週末に山へ出かけていく。
山の技術を覚え、山慣れしていくと最初の感動は薄れていったのは確かだった。
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神田たけ志 『氷壁の達人』
「登りたくて登りたくてしょうがない」というモチベーションをうらやましく思ってしまうのは、かつて自分がそうで今ではそうではないということだろうか。
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苦渋をもって認めざるを得ないことに、自分は山ではモノにならなかった。技術であれ、登山のあるジャンルであれ、自分はモノにはならなかった。この先もそうはならないだろう。と、最近あるとき悟ったのだが、そう思うとなんだか肩の力が抜けてもう一度山へ向き直ってみようかと思えるから不思議だ。


昔の先輩の記録によると、かつてはある渓谷を遡行するのに何日かかるかわからないという状態で行っていたそうだ。そりゃそうだ、その渓谷を遡行した者はまだ誰もいなかったのだし、今みたいに遡行図や沢登りのガイドブックがあるわけでもない。翻って自分のやっていることを考えると、ある沢を遡行するのに2日でいけるとか2泊3日かかるとか事前に分かって、さらに下山路はここ、下山したらどこそこの温泉に行って、どこそこでメシ食って帰る、なんてまるで旅行に行くかのような計画を立てて出かけて行っているのだ。「何日かかるかわからない」なんて状態はびっくりするとともにうらやましい環境とも言える。残念ながら今からその時代に戻ることはかなわない。


この冬にあるほとんど記録の無い雪稜を計画したとき、岩壁を登るためジャンピングセットまで持っていこうかという話が出た。
「えーっ!そんなものまでいるんですかこのルート?」
「・・・・・わからないんだよ」(ボソッ)
と、ある先輩は言った。その先輩はつまり「行ってみなければそんな道具がいるかどうかわからないんだよ」という意味のことを伝えたかったのだ。
目から鱗が落ちた。
登れるかどうかも分からない、楽しめるかどうかもわからない(ひょっとしたら酷い目に合うだけかも)。そんなことを平気でやってみるのがこれからはいいかもしれない。全然成算のないことをやってみるのがいいかもしれない。予定調和の、旅行計画のような登山計画を立てるよりも。