超越論的観念論
デカルトは「疑っているこの私」だけは疑えない事実として自らの"うち"にあるものは確かだとした。"そと"にあるものの無矛盾性とか確実性については神の誠実性を持ち出した。カントは"そと"にあるもの、たとえば目の前のコーヒーカップやパソコンや、時間や空間もみずからの"うち"にある観念だとした。ここでカントは大きく飛躍し、コーヒーカップやパソコンも"うち"にある表象だからこそ確実であるとしたのだった。超越論的観念論の誕生!
ニュートン力学的な絶対空間や時間というのは、全人類が死滅しても、この宇宙に意識をもつものがまったくいなくなっても実在するという立場に立っている。カントはそれらの経験的実在性を承認するが*1、超越論的実在性をきっぱり否定する。
「今から新宿駅前に行ってそこにいる人に聞いたら、99%は超越論的実在論者でしょうねえ」と、「純粋理性批判」を読む講義で中島義道先生が言ったことがある。
「カントを何年も読んでいるとニュートンの方が異常に思える」・・・とも。
カントが飛躍したのはひたすら"うち"に向かってだった。"うち"にあるものだけが真実。「神」はカントにとって"そと"にあるものだった。その他"そと"に配置されるものは「自由意志」「不死の生命」など。カントは"うち"を拡大したといってもいい。その中にはコーヒーカップもパソコンも、ニュートンの力学法則が成り立っている時空間も含んでいる。時空間はカントによれば感性の直感の形式である。では感性を持つ者がいなくなれば、時空間は消滅するのか?・・・そうではなく、無矛盾概念になるにすぎない*2。では無矛盾概念の"そと"には何があるか?・・・カオスである。
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奇妙なことにカントは「純粋理性批判」を、一般的な内容として書いた。つまり、すべてはあなたを含め私の観念のうちにあるにすぎないということを、あなたにわかってもらうため書いた、のである。最初はカントはカント自身に向けて「純粋理性批判」を書いたはずなのに、それが一般的に通用する内容だと信じて発表したわけである。永井均の言う<私>の問題意識は、カントも中島義道も極めて薄い・・・批判しているわけではなくそれは彼らの哲学ではなかっただけということ。