雪稜登攀

「あんなとこ登るのかよ」
 と、重い荷物で重いラッセルをしながら思う。どちらかというとアプローチ中に目指すルートが見えていてくれた方がいいが、見えるとそれがまた不安をつのらせる一因になる。出発する前から不安いっぱいで、天気予報をたびたび確認したり、装備に抜け落ちがないか用意したザックをひっくり返してみたりする。


 天候、雪の状態。雪稜登攀は不確定要素が大きい。
 特に天候。天候次第で快適な登攀になるか、来たことを後悔するような山行になるかのわかれ道となる。冬という季節がら、一般的に好天はあまり期待しない。
 雪の状態。これはコンディションによってはまったく登るのが無謀となることもある。

 雪稜登攀よりも冬壁の方が不確定要素は少ないと言った先輩がいる。冬壁ならまだ確保支点が望めるし、壁の中なら雪崩に遭うこともないからだそうだ。冬壁を登る実力もないので、冬だけ登攀対象になるリッジを好んで登ってきた。
 尾根の末端に取り付いて高度を上げる。やがて傾斜が強くなり稜線が細くなり、落ちたら終わりという個所になるとロープを出す。ロープを結ぶと今までの不安や浮ついた気持ちがすーっと消えていく。覚悟が決まるというか、ロープを結んだらあとはやることをやるだけだから心配事がなくなるというか、ともかくあとは何も考えず登るのみ。

 隔時登攀(スタカット)は、ビレイしている間はロープだけに気を使っていればよいから比較的余裕がある。天気が良ければ眺めを楽しめる。隣の雪稜のルートに他のパーティーが取り付いているのが見えることもある。まったくあんな急峻な切り立った場所に人が立っているなんて信じられない光景だが、向こうのパーティーからもこっちはそう見えるに違いない。天気が悪ければひたすら寒い。手のひらを握ったり開いたり。ロープは離せないから片手づつ交互だ。靴の中でも足の指を握ったり開いたり。その場で足踏みしてみたり。
 ビレイの待ち時間は長い。1時間かかったりすることもザラだ。ロープがじれったいほど少しづつ伸びていき、ようやくロープの流れが止まってリードから声がかかる。セルフビレイを外して登り始めると、1時間も凝り固まっていた体が手と足の冷え切った指先に血流を送り込んでズキンズキンと痛ませる。痛いのは凍傷になっていない健康な証拠だ。

 計画段階でテントが張れる場所が確保できるかわからないこともザラだ。日が傾いてくるとだんだん泊まる場所のことを考え始め、完全に暗くなってしまう前に、リッジのどうにか平坦な場所で、雪を掘って固めテントを張れる場所を作る。結局今までテントが張れなかったことはない。その中に入ってコンロに火をつけて温かい飲み物をとり、夕飯を分けあい、今日の登攀でやや興奮状態だと話題は尽きない。体が温まってくればテントのナイロン生地一枚向こうはズドーンと切れ落ちていたり、この先に見えた絶望的なキノコ雪と岩とヤブのミックスもとりあえず忘れて眠りにつける。
 翌朝、キンキンに冷えていて晴れ上がっていればうれしい。一晩中雪が降っていたら気が重い。ここを登り切ってしまう以外にやることはない。大抵は下降する方がずっと時間がかかって危険なところまで登ってきている。登り切ってから晴れるというのが最高。下山時に晴れてくるというのもいい。そんなこんなで降りてきて、登ったルートが見あげられるのなら言うことはない。
 そのときしみじみ思う。
「あんなとこ登ったのかよ」