形而上学=絵空事

ゲーデルヴィトゲンシュタイン論理実証主義者たちからは距離を置いた。論理実証主義は、論証も実証も不可能な形而上学絵空事)を否定しようとする運動だからゲーデルヴィトゲンシュタインの目指した方向と共通しそうなのに。
おそらく二人はこんなことを思ったのではないだろうか。想像だが、おおよそ〇〇主義と名のつくものは、それ自体が形而上学絵空事)だと。つまり論理実証主義は、彼らが排斥しようとした形而上学絵空事)を、また一つ新しく追加してしまうだけなのではないかと。

ア・プリオリな知識

ゲーデルの哲学的信念である「現在知られているよりも、比較にならない多くの知識が、ア・プリオリに存在する」という命題がひっかかっている。
ア・プリオリに存在する知識とは何か? 例えば、ゲーデルがそれを証明するよりも前に「不完全性定理」が成り立っていたと考える。同様に誰もそれを証明しなくても、三角形の内角の和は2直角であることは真だろう。ゲーデルは「概念は客観的実在である」とも言っている。ゲーデルは数学的実在論を固く信じているようで、誰もそれを証明しなくても「不完全性定理」は成り立っており、自分はたまたまそれを証明したと思ったのだろう、何かの法則を発見した物理学者のように。
ところで誰にも証明されていない定理ってなんだ? それどころか、証明が不可能な命題(定理)があり得ることを、不完全性定理自身が証明しているのだが。

一世代しかもたない常識

http://www.digitaldj.jp/2009/10/17_153018.html


19 :名無しさん@十周年:2009/10/16(金) 17:55:02 id:MVkpniAp0
専業主婦が一般的だったのは高度経済成長期の数十年、たった1世代でしかないという事実
よくあることなんだけど、今現在の社会的な慣習を永続的なものだとみんな勘違いしちゃうんだよ。
みんなでクルマを持つようになってまだたった1世代。
腕時計をするようになって1世代だが、携帯のせいで売り上げが3分の1に激減
社会人のたしなみと誰も疑ってなかったはずのものが、1世代であっけなく終了。
タバコと酒の消費量は戦後で1人あたり5倍くらいになってて、今みたいにパカパカ摂取するようになって1世代。
(だから健康被害とか出てくるんですよ。当たり前やがな)
バカみたいな飲み会とかやってたのは実は団塊だけ。タバコは今のペースならあと0.5世代で滅ぶ。
自由恋愛も1〜2世代ですよね。だいたい告白という風習が少女漫画から広まったものじゃなかったっけ。1世代。
(社会慣習は意外とフィクションの影響を受けている)
日本女性がブラジャーをつけるようになって1.5世代くらいか。
今のスタイルの葬式がもうちょっと長くて2世代くらい?

ほかにも「実はたった1世代」ってモノや慣習は無数にある。ちょっとこの事実にお前ら恐怖したほうがいいです。

だからまあ、なんも考えず親世代の真似をしようとするのはやめろ。無理だから。
親の言うことも聞くな。だいたい親もこの辺のこと分かってねえから。愚者は経験に学ぶ。しかもたった1世代の。
終身雇用なんてギャグだし、ローンで家建てる前に経済誌でも購読するべきだし。
ブルーカラーやホワイトカラーどころか、最近はゴールドカラーって新しい職種が出てきてるなんて言われている。

終身雇用制度なんてどうにか一世代で有効なだっただけだった。同じような格好をしたサラリーマンが、すしずめで通勤電車に乗るとか、今の世代に始まったことだ(そしてこの世代で無くなって欲しい)。この世代で例えば新聞がなくなってしまうかもしれない。他にどんなものがこの世代でなくなってしまうだろう?
個人が自由に世界旅行に行けるのもこの世代から始まったこと。一世代前は、結核は今のガンに等しい死に至る病だった(抗生物質が発明されていないので)。一世代前は、出産は自宅だった(医学の進歩で変わったことは多い)。先祖代々の墓というのがあるが、火葬して埋葬されたのは前の一世代一人だけ。その前の世代は全員土葬。
この話の教訓は自分や世間が常識として考えている習慣や価値観がまったくあやういものだということ。そして願わくば、自分の抱いている常識を他人に押し付けてもらいたくないということ。

阿佐ヶ谷の穂高書房

所用で阿佐ヶ谷の穂高書房へ。
阿佐ヶ谷は以前住んでいたので駅前の変わりっぷりには驚いた。阿佐ヶ谷は賑やかで華やか。中央線沿線の猥雑さとモラトリアムを許容するような雰囲気は未だにあこがれている。新宿駅発の白馬行き「あずさ」に乗れば、八ヶ岳や北アの麓までたった数時間だ。それを横目にして逆方向に向かう通勤電車に乗っていたのである。ああ、あっちの列車に乗れば山なのに。つくづく目の毒なのだった。
さて今年で40代に突入し、30代が終わるのだが、この10年は長かったなあ、と思った。この10年から山を取ったら、人生の重大な出来事の7割近くはなかった・・・この10年をもう一度繰り返せといわれたら、しんどいだろうけれど、記憶を全部抜いた上でまたやりなおすなら、それも悪くない。
40代ともなると、モラトリアムもあと40年。じわっとくる。


阿佐ヶ谷に山岳図書専門の穂高書房はある。2〜3畳くらいの小さい店に、雪崩が起きそうなほど山岳関連書が積まれている。なんで山関係の本はこんなに多いんだろう?一般書籍から自費出版、山岳会の会報、稀覯書、そこの親父さんは山岳関連書の生き字引だ。山の本の話をしだすと止まらない。ドアに山のウェアと靴が干してあった。もう日帰りの山しか行かないと言っていたけれど、それでも「現役」なんだなあと思い、山から遠ざかりつつある我が身を顧みる。
[:W600]
阿佐ヶ谷の中杉通り